七月の仔うさぎ 〜君は可愛い僕の仔うさぎ・番外編〜









その日最後の講義の終了を告げるチャイムが鳴った。
教授は既にテキストと資料をまとめると教壇を後にしている。
ざわざわと騒がしい学生達の談笑の声に、微かに雨音が混じる。
窓の外は朝から降り続く本格的な雨。
まだ梅雨は明けていない。
小夜は教室の一番窓際の席で、丁寧に写し終えたノートを閉じるとペンケースにシャープペンシルを仕舞い、恨めしそうに窓の外を見上げた。
親友の香里は先日からテニスのサークルに入っていてやたらと忙しそうにしている。今日も雨だというのにサークルの集まりがあると言って、一足先に教室を後にした。小夜も誘われたけれど、自分にサークルに入るような余裕は金銭的にも時間的にもなく、その代わりにやっと見付けたアルバイト先に直行する毎日だ。ハジに何度も念を押され、今度は健全なバイト先を見付けた。
都会の真ん中とは思えない緑に溢れた小さなカフェ。
若い夫婦の営むその店の片隅では可愛らしい手作り雑貨も取り扱っていて客層のほとんどは女性か、カップルだった。

実家が居酒屋だった事もあり、客のオーダーを取ったり、飲み物や軽食を運んだりするのは小夜も慣れている。
大学とハジのマンションとのちょうど中間あたりに位置し、時給も悪くはなく、月曜から金曜日までの毎日、放課後から閉店近くまで。お酒を扱う店ではないので深夜に及ぶような事はない。
それから帰宅すると、ハジと遅い夕食を取るのにちょうど良い時間でもあった。
しかし幾らアルバイトを始めたからと言っても、勿論それだけで生活の全てが賄える筈もなく、自分で学費を貯める事など夢のまた夢だろう。
それでも…それ以上小夜の時間がアルバイトに拘束される事に対してハジは頑として首を縦に振らない。家賃も必要ないと言い、食費も受け取らない。申し訳ないとは思っているけれど…実際にはとても助かっていて、小夜は自分で働いたアルバイト代から、倹約しながら身の周りの物や交通費などを賄い、残りは貯金に充てるつもりだ。もっとも働き始めて一カ月に満たない小夜はまだ自分で働いたアルバイト代と言うものを手にした事はない。本当はもっともっと自分で働いて自分の生活位何とかしなくてはと思うけれど…、しかし確かにハジの言うとおり、やっと環境に慣れたばかりの小夜にとって、これ以上の時間をアルバイトに拘束されれば、本業である学業を疎かにしてしまう事は明らかだった。
 
三々五々と散っていく同級生達を尻目に、小夜は一人溜息を吐いた。
本当なら今日も、今頃はもうバイト先へ向かっている時間だ。
しかし今朝になって急に連絡が入り、店主の都合で今日は一日臨時休業になってしまったのだ。
話によると郷里の父親が怪我で入院したのだそうだ。
小夜は入院している父の事と、ぼんやりとイメージを重ねた。
いつもならアルバイト先で忙しく働いている時間がまるまる、ぽかんと暇になってしまった。
勿論、貴重なアルバイト代が一日分減ってしまうのも痛いところだけれど、こうしてふいに一人の時間が出来てしまうと小夜はどうして過ごしたら良いのか、解からなくなってしまう。自分一人だけこんな風にぼんやりと過ごしていい筈がない、もっと何かしなくては…と理由もなく焦った気分になってしまうのだ。
父も弟も、沖縄で懸命に自分のすべきことをしているだろうというのに、自分はこうして故郷を離れ好きな男性と共に暮らし、好きな事をさせて貰っているのだから…。それに真っ直ぐ部屋に帰っても、きっとハジが帰宅するのはもっとずっと後だ。
一人の部屋で過ごす時間は苦手だけれど、外で時間を潰す様なあても小夜にはなかった。
いつしか人気のない教室にいつまでも居残る事も出来ず、小夜は考え直すと勢いよく椅子から立ち上がった。
今日は帰り道に少し遠回りをして、夕飯の買い物をしよう。ハジが帰ってくるまでにはまだたっぷりと時間はあるし、きちんと計画通りにすれば自分にももう少しまともな料理が作れる筈だ…。
自分にも手の届きそうなメニューを組み立てながら、教室を後にしようとする…その時、そんな小夜の決意を挫く様に携帯の着信が鳴った。小夜は慌ててショルダーバッグを肩から下ろし、鞄のポケットから携帯を取り出した。
二つ折りのそれを開くと、液晶画面の表示はハジ当人の携帯からだった。
今まで彼がこんな風に小夜に電話をくれた事など無い。
一体どうしたんだろう…と言う思いと、慣れない電話で話す事の気恥かしさとが半々に混じる。
「…はい。あの、小夜…です」
電話口の向こうから聞こえる声は、まるで実際に耳元で囁かれているようだった。
知らず知らず頬が熱くなる。
ハジはそんな小夜の様子に気がつく筈もなく、普段と変わらぬ調子で小夜を誘った。『…もしアルバイトがお休みなのでしたら、今から迎えに行っても宜しいですか?』「…良いけど。…どうしてお休みって知ってるの?私…」
小夜は今日が臨時休業だなんてハジに話した覚えはない。
『…たまたま店の前を通りかかったら、臨時休業の張り紙がしてあったので…。…まだ構内ですか?』
「…うん」
『では今から10分ほどでそちらに着くと思いますから…着いたらまた電話します』ハジは手短に、そう言って電話を切った。
ちょうど彼の事を考えていた。夜遅くにならなければ、会えないと思っていた相手から思いがけず誘われて、小夜はまるで狐につままれたような気分だ。
切れた携帯をいつまでもじっと見つめながら、小夜は思う。
もしかしたら、ハジには自分の揺れる心の動きが目に見えるのだろうか…と。
 
 
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パールブラックの車体が綺麗に雨を弾いていた。車に疎い小夜はこの車の車種を知らない。しかし、流れる様なフォルムと助手席の座り心地はとても気に入っている。再び電話を貰いピロティーの下から出ると、駐車場の一番近い場所にハジの車を見付けた。
足元の水溜まりが跳ねるのも構わず小走りで駆け寄ると、運転席のドアが開き、黒い傘を開いたハジがスーツのまま下りてくる。そうして助手席のドアを開け、小夜が乗り込みやすいように小夜の手から赤い傘を受け取った。
スーツの裾が濡れる事も、皮靴が濡れる事も気にしない様子で、流れる様な一連の動作は洗練されていて止める隙もない。小夜が大人しく助手席に座ると、彼はそれを確認して静かにドアを閉め、自らもまた手早く傘を畳むと再び運転席に乗り込んだ。
「…すれ違いにならなくて良かった…」
雨に濡れた髪から滴が垂れる。
小夜は慌ててポケットからハンカチを取り出すと、そっとハジの肩先の滴を拭った。「大丈夫?」
「すみません…」
差し出したそれを、ハジは丁寧に受け取った。
「…急に、どうしたの?…お仕事は?」
エンジンを掛けるハジの横顔に小夜が問うと、ハジはちらりと小夜を見やった。
「…まだ仕事中ですよ。……仕事中ですが、少しくらいなら良いでしょう?……どこか行きたいところはありませんか…?」
「…そんな急に言われても…」
本当に小夜にとっては、自分が今どうして彼と一緒にこうしているのかがまだ信じられない位なのだ。ハジは独りごとの様に、雨に濡れない方が良いですね…と、考えを巡らせている。
「…定番ですが、少し時間を潰して食事にでも行きますか?」
「……潰す?」
「……夕食には少し早いでしょう?」
「それは…そうだけど…」
戸惑う小夜を横目に、ハジは静かに車を発進させた。
 
 
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ハジが小夜を連れて訪れたのは、以前二人で買い物に訪れた事のある百貨店だった。確かに雨にも濡れる事はないし、時間も潰せる。
ハジは少し恐縮したように微笑んだ。
「すみません。…………あまり良い場所を知らなくて…」
そんな風に謝るけれど、小夜は別に気にしている訳ではない。こうして一緒に過ごせるだけで嬉しいのだと面と向かって言ったら恥かしいだろうか…。
「あの時も、ここでお買い物したね…。お洋服、たくさん買って貰っちゃった…」
勿論、今だって買って貰った分を返したいとは思っているけれど、実際に自分が働いてみるとそれだけの金額を稼ぐというのがどれほど大変なことなのかが解かる。
「良いのですよ…」
ハジは気にした風もなく笑った。
あの時、どうして良いのか解からず途方に暮れる小夜を、ハジは助けてくれたのだ。自分の部屋に案内し、アパートの火事で全て無くしてしまった衣類も日用品も彼が一通り揃えてくれた。
思えばあれからまだ一か月ほどしか経っていないというのに…。
いつしか小夜にとってハジはもう隣に居てくれなくてはならない大切な存在になってしまっている。
「…ありがとう」
それは何度も伝えてきた言葉だったけれど、小夜は思い出す度にそう言わずにはいられない。服を買って貰ったり沖縄に連れて行って貰ったりしたけれど、勿論それだけではなくて…。
彼の小夜に対する言動の一つ一つ、その細かな心遣いに対して小夜は感謝している。「…どうしたしまして?」
そう答えながらも、ハジは具体的に何に対して小夜がそう言っているのか思い当たらない様子だ。
綺麗に飾られたショーウィンドーの前を、二人は付かず離れずの距離で歩く。小夜はショーウィンドーにディスプレイされた商品ではなく、磨かれたガラスに映り込む二人の姿を見詰めていた。
 
何度か抱き締められた。
そして、何度か…キスもした。
ハジは小夜の事を好きだという。
ずっと自分の傍に居て欲しいと…。
小夜もまた、今では彼の事を何よりも愛しく思っている。
抱き締められれば体中の力が抜け、キスされれば全身が蕩けてしまいそうだ。
車に乗る時だって、あんなに完璧にエスコートしてくれるのに…。
こうして何気なく二人で歩く時、その距離はどこかぎこちない。
寄り添うというには離れていて、けれど友達同士と言うには親密過ぎる。
付かず離れずの微妙なその距離感。僅かに手をずらせば触れるほど傍に、ハジの手があるのに…自分達はまだ手をつないで歩いた事もないのだと、ふいに気付く。
周りの目に自分達はどんな風に映っているのだろう…。
ショーウィンドーに映る自分達の姿を見詰めて小夜は急激な不安を覚えていた。
スーツ姿のハジと、学校帰りの自分とではあまりにもかけ離れた存在の様に感じたのだ。
「…小夜?」
いつの間にかぼぅっと立ちつくしていた小夜の名前を、ハジが呼んだ。
「どうしました?」
「…あの、あのね…。……あ、・・・な、何でもない」
明らかに不自然な態度で、ハジを振り切ろうとする。
「小夜?」
人前であるにも拘らず、駆けだそうとする小夜の腕をハジが掴んだ。
「どうしたんですか?突然…」
「……私…髪を伸ばしてみようかな?」
「…ええ。…よく似合うと思いますよ…?」
今の短い髪も可愛らしいですが…と、唐突な小夜の発言に答えながらも、ハジは話の展開についていけずにいる。
「…もっとちゃんとお化粧もして…綺麗になりたい」
「…急に…一体どうしたというんです?小夜…」
化粧などしなくても充分に綺麗で可愛らしいですよ…とその膨らんだ頬を覗き込む。芸能人の様に整った面…真っ青な瞳に間近に覗き込まれると、小夜のそんな努力など意味のないものに思えて、小夜はぷいと横を向いた。
「…………………」
「小夜?」
あの沖縄の夜以来、随分と呼び慣れた小夜の名前。
その優しい口調が、やや問い詰める様な音色を帯びて…、小夜はほんの少し唇を噛んだ。
「…もっと大人っぽくなりたい」
「………はあ。なるほど?」
到底納得し切れてはいない相槌。瞳は『それはまたどうして?』と小夜に先を促している。
「…ハジの隣にいても、不安にならないくらい…」
「………私の隣に居るのは、…不安、ですか?」
小夜の言葉に、聞き捨てならない様子でハジが問い返した。
あらぬ誤解を招かない様に…小夜は大きく首を横に振った。
「…違うの。…ハジの隣はいつだって安心出来るけど…。そうじゃなくて…私、すごく子供っぽいから…ハジの…」
そのまま黙りこむ。
「私の?」
「私…ハジの…恋人には、全然見えないよねって…思って…」
「…小夜」
ほんの少し呆れた様な、ほっと胸を撫で下ろしたような複雑な態度で、ハジは再び腰を折る様にして小夜を覗き込んだ。落ち掛かる前髪の下で、その瞳が優しげに小夜を見詰めている。
「…どうして急にそんな事を言うのですか?…私がどれほど小夜に心を奪われているか…充分ご存知でしょう?」
恥ずかしげもなく、そんな事を言わないで…と小夜は恨めしげに男を見上げた。
「…ごめんなさい。…私」
けれど、その唇から零れたのはハジに対する謝罪だった。
どうしてこう自分は子供っぽいのだろう…。
外見だけではない。
沖縄から戻り、アルバイトを始め、自分で初めてお金を稼ぐ為に働いて…その大変さが身に染みていた。
いかに自分が無力なのかを思い知らされた。
そして、いつも平然と忙しい仕事をこなしているこの目の前の男が、どれほど大人なのかと言う事も働いてみて良く解かった。
「…小夜」
不意に名前を呼ばれて我に返ると、抵抗する間もなく唇が降ってきた。
幾ら通路の脇に除けているとは言え、多くの人が行き交う公共の場で…。
一瞬風の様にハジは小夜の唇を奪うと、ぎゅっとその肩を抱き寄せた。
通り過ぎる女性が目を丸くして二人の脇を通り過ぎた。
「ちょ…ダメ…。ハジ…」
数秒そうしていたけれど、ふわりと解放される。
「小夜は充分に頑張っていますよ。…そんな風に、後ろ向きに考えてしまうのは…お腹が空いているのでは?」
「…そ、そんな事…」
ない…と答えようとした瞬間、小夜を裏切る様に…くぅっとお腹が鳴る。
「…やっぱり」
「やだ…もうっ」
恥ずかしさに頬が赤くなるのを感じて、小夜は視線を逸らす様に俯いた。そんな小夜の手を、何の予告も無くハジが握り締めた。
「…貴女を不安にさせてすみません。これでは…沖縄のお父さんに合わせる顔がありませんね」
「………違うの。そんな事じゃなくて…」
ハジに非がある訳ではない。
ただ自分が一人で見えない何かに焦っているだけなのだ。

早く、大人になりたい…小夜は心からそう思う。
彼の隣に並んで、恥ずかしくない様な大人の女性に…。
「いつも忙しくして…一人にさせてすみません。なかなか、ちゃんとしたデートにも連れて行ってあげられませんが…」
「…本当に、そんな事は…気にしないで…私…」
いつも、一緒に晩御飯を食べて一緒に片付けて、朝一番におはようと笑って…。
それだけで十分なのだ。
「…小夜。食事の前に…」
ハジは突然思いついた様子で、小夜の手を引いた。
館内案内の地図をしばらく眺めて、ハジは行き先も告げずにエレベーターに乗った。そうして案内されたのは、可愛らしいアクセサリーショップだった。
百貨店にありがちな高級宝石店とは趣の違うカジュアルで可愛らしい内装。
ハジは迷わず店内に入ると、一番奥のショーケースの前に小夜を立たせた。
「…え?…ええ?…何?」
「…一つ、選んで下さいますか?」
にこやかによって来た女性店員にハジはいくつかのリングを出して貰う様に頼んだ。「…ねぇ、本当に。私…指輪なんか…」
これ以上何も、買って貰わなくても…
ハジは、そう言い掛けた小夜の左手を取り薬指にそっと触れた。
「いつも…この指に、嵌めていて欲しいのです。……学生同士の様に、いつも一緒に居られるという訳ではありませんから…」
「………ハジ」
「これでも、…独占欲は強い方なのです…」
これは貴女の為に買うのではありません、私の我儘なのですから…と。
本気とも冗談とも取れる口調に、そのやりとりを聞いていた店員がここぞとばかりに割り込んでくる。
「お幸せそうで良いわね…。…七夕の日にプレゼントなんて、素敵な彼じゃありませんか?ねぇ…」
そう言って幾つかのリングをショーケースに並べた。
小夜を見て店員がセレクトしたリング達はどれも華奢で可愛らしいデザインだ。
「…私、選べないよ…」
困り果てた様に呟く小夜に、ハジは笑ってその中の一つを手に取った。
「…そうですね。これなどは如何です?」
細い流線型を描くプラチナの台に、小さな花を象ったピンク色のスワロフスキー。
花弁の一つ一つが小さなクリスタルで出来ている。とても可愛らしくて、ついうっとりと眼を奪われる小夜の表情にハジも、そして店員も満更ではない様に微笑んだ。
ハジは再び小夜の左手を取ると、その細い指にそっとリングをはめた。
「サイズも宜しい様ですね?」
「うん…。大丈夫…。これ、可愛い…ね…?」
ハジにそっと差し出した左手を、小夜は自らもじっと見詰めた。
指を開いたり揃えたりして、照明の明りにキラキラとクリスタルを翳す小夜に、ハジはもう一度『これに決めますか?』と尋ねた。
小夜は申し訳なさそうにハジを見上げたけれど、やがて小さく『うん…』と頷いた。
 
 
□□□
 
 
食事を済ませ車に戻ると、既に外は暗くなっていた。
いつの間にか雨は上がっている。
濡れたアスファルトが黒く光り、窓を開けるとぷんと雨の夜の匂いがした。
 
ぽわんと夢を見ている様な気分だった。
帰りの車中で、小夜は何度も嬉しそうに左手の薬指を見た。何度も大切そうに反対の指で触れる。
そうして気恥かしさを誤魔化す様に、隣でハンドルを握るハジに話しかける。
「…今日は、七夕だったんだね…。最近…忙しくて、そんな事忘れてた…」
「……今からでは笹飾りも間に合いませんね」
ハジの言葉に、小夜は来年の七夕は一緒に笹飾りを飾れるだろうか…と、そんな二人の姿を想像する。
いや、来年どころか、その次も…その次の年も…この先ずっと、一緒に七夕を迎えられるだろうか…。
ハジに問えば、『当たり前です…』と答えるだろう事は目に見えているけれど…。
嬉しくて、小夜はもう一度薬指の小さな花を優しく撫でた。
「…沖縄では七夕に…勿論笹飾りも飾るけど、皆でお墓のお掃除をするのが決まりなんだよ。…ご先祖様にもうすぐお盆ですよ…って」
「そう言えば、沖縄のお墓は大きいですからね…」
ハジの言葉に小夜は頷いた。
「…そう、お墓で宴会もするよ。…でも、今年は出来なかったね。…いつもそれが当たり前だったのに…」
今まで当たり前だった事が当たり前でなくなる心細さ。
微かに震える小夜の声の調子を聞き洩らさず、ハジは小夜を見詰めた。
信号が青に変わるほんの僅かな時間…。
「小夜…」
呼ばれて顔を上げる小夜にそっと指を伸ばし、その髪を優しく梳いた。
「…来年は、忙しいですね。…笹飾りを準備して、お墓の掃除をして…後は宴会?」「………」
「…来年は…出来ますよ。…心配しないで」
「………ハジ」
信号が青に変わる。
流れる景色を見詰める内に、ふいにハジが言った。
「本当は、貴女を送ったらもう一度会社に戻るつもりでしたが…」
「……………」
「…今夜は、もう貴女を一人にはしておきたくない」
「…………ハジ?」
その意味を測り切れずに、小夜がじっとハジを見つめ返した。
どういう意味?と真っ直ぐに見詰め返す瞳にハジは苦笑を零した。
「…私はひこぼしではなくて、生身の男だという事ですよ…」
「……な…生…身?」
大きく見開かれた瞳。
「意味が解からなくても、…良いのですよ…?」
「…そ、そ、それは…」
暗い車内でもはっきりと見てとれるほど、小夜の顔が上気してゆく。
耳まで染まった小夜の横顔につられる様に、ハジの面もやや赤みを帯びる。
「…あ、…わ、私…その…」
真っ赤に顔を染めて小夜がしどろもどろに薬指のリングを撫でる。
ハジは、思案顔でゆっくりとハンドルを切った。
 
雨の路上…二人の暮らすマンションは、もう目と鼻の先だ。

《了》


20090708
何とか、一日遅れで更新出来ました〜。
…いつもの事ながら色々と設定はユルイですが、内容も…ちょ…。
ハジが仕事サボってデートする話でした。別に七夕とはあんまり関係なく。
(そんな事ではいけないと思うけど、小夜たんに掛かるとハジはデレデレです…)
だって忙しいサラリーマンはあんまり七夕とか気にしてなさそうだし。
小夜たんも今それどころじゃない…ハズ。
これは、仔うさぎの溜息の『後』のお話なので、まだ「仔うさぎ4」を書いていないだけに
突っ込んだ会話は出来ず(苦笑)その辺が苦労と言えば苦労かな。
インスタントラーメンの様に(お湯掛けて3分とはいきませんが)二日と言う短い時間で書いたので
勢いのみで、すみません。

この後…部屋に帰ってどうなるんだろうね。この二人…二ヤリ(笑)

あ、ちなみに…小夜たんが買って貰った指輪は13000円位のつもりです。
(あ、そんな事どうでも良い設定ですか?そですね…)
あんまり何でも買ってくれる男は嫌なんだけどね…。この際仕方あるまい。
ハジが金遣い荒い訳ではなくて、小夜たんに関しては際限がなく…。
ああでもお金はたくさん稼いでいるんだと思います。良かったね、小夜たん。

最後までどうもありがとうございました〜!!